幼稚園から低学年のころは、本当に読み書きに不自由があったので
息子は、注意書きや危険を知らせる看板が読めなかった。
「ここで、あそんではいけません」
「かわで、およいではいけません」
「ここに、はいってはいけません」
ほとんど、読めていなかった。
イラストがついている看板も、もちろんあったけれども、どれも「絵」「イラスト」として見ていて、〇〇をしてはいけません、の注意書きと認識していない時があった。
駅の構内で、いきなり
「ここで、スケボーしてもいい?」
と、スケボーを構えたことがある。
「ダメだよ」
と、答えたけれど、違和感を感じて尋ねた。
「もし、ここで、お母さんが、スケボーしてもいいよって言ったら、スケボーしたの?」
と、聞くと、ためらいながら、うなずいた。スケボーしてもいいと言われたならば、駅の構内でスケボーをやったのだ。
まだ、幼稚園生だということをのぞいても、違和感があった。
「お母さんだって、間違えたり、悪いことをするときがあるよ。お母さんが悪い時に、それは悪いことだって言わなきゃいけないよ、自分の心に正義を持ちなさい」
と、この時は伝えた。
公衆道徳が育っていないのは、アンパンマンを見ていないせいか、と本気で思った。
この一件から、公園の注意書き看板などを、改めて読ませるようにした。
そして、読ませようとしたが、読めなかったので、私が声に出して読んだ。
ここで、息子は
「あーこれは、そういう意味だったのか」
と、はじめて、注意書き看板を理解した。
トイレの男性用マークと女性用マークも説明した。赤ちゃんのミルクの授乳室マークも説明した。指を挟まないようにの注意マークも説明した。
息子は看板とマークを、ここで理解した。
リス組さんの教室のリスのマークも、自分のロッカーのカニのマークも、わかってはいたけれど、わかりきってはいなかったようだった。
幼稚園では、みんなが動いているのを見てから、なんとなく真似をしていたらしい。
この「みんなが動いているのを見てから、真似をして動く」は幼稚園の先生からも指摘があった。
私がスケボーの時に感じた違和感と、先生が「どうも、本当にはわかっていないようだ」の違和感は、近い違和感だったと思う。
わからなかったんだよなぁ、不安だったろうなぁ、と今でも思う。
看板も、マークも、教えなければわからないことだった。
喜ぶからと、アルファベットの絵本ばかり読まず、もっといろいろな本を読むべきだったなぁとも思う。
後悔先に立たずの話ではあるのだけれど。